新潟県長岡市に受け継がれし志「長岡魂」 #常在戦場、#不撓不屈、#米百俵の3精神を持ち合わせ、幾度の困難を乗り越え、未来を切り拓いてきた精神性

米百俵の精神を知る -新潟県長岡市

「米百俵」を知る

米百俵の精神

慶応4年(1868年)、北越戊辰戦争で長岡藩は、新政府軍との戦いに敗れ、城下町長岡は焼け野原となった。

食べるものにも事欠く長岡藩の窮状を知った三根山藩(現在:新潟市西蒲区)から米百俵が見舞いとして贈られてきたが、時の大参事、小林虎三郎は、百俵の米を売却し、文武両道に必要な書籍、器具の購入にあて、国漢学校(現在:大手通2丁目)の設立資金に注ぎ込んだ。こうして開校した、国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされた。

これは、長岡の近代教育の基礎となり、後年、東京帝国大学総長(現東京大学)の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥など……、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。

「国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」

という教育第一主義は、「米百俵の精神」と呼ばれ、長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至る。

引用:長岡市HP「米百俵の精神」より

米百俵に関連する人物

小林虎三郎(こばやし とらさぶろう)

小林虎三郎 米百俵の精神 新潟県長岡市
小林虎三郎

文政11年(1828年)8月18日生まれ。

23歳の時、佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松陰)とともに「二虎」と称せられる。

虎三郎が、帰郷後に著した「興学私議」は後の国漢学校の創設に大きな影響を与えた。終生病にさいなまれたことから、後年「小林病翁」と改名。北越戊辰戦争後の長岡藩の大参事。

引用:阪之上小学校 米百俵伝統館,長岡高校記念資料館

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>新潟県長岡市に受け継がれし「長岡魂」

新潟県長岡市に受け継がれし「長岡魂」

花火のように決して目や耳で感じ取ることはできないかもしれません。ですが確かにこのまちには受け継がれてきた志があります。過去から続いてきたこの想いをここで途切れさせるわけにはいきません。今こそこの長岡魂は、この先の未来を切り拓くために必要なのではないでしょうか。

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