新潟県長岡市に受け継がれし志「長岡魂」 #常在戦場、#不撓不屈、#米百俵の3精神を持ち合わせ、幾度の困難を乗り越え、未来を切り拓いてきた精神性

常在戦場の精神を知る -新潟県長岡市

「常在戦場」を知る

常在戦場を知る -新潟県長岡市

「普段の生活のなかでも、非常時に備えること」

を意味する「常在戦場」 この4文字は、長岡藩士にとっての精神規範であった。

戦場の生活を予測して、平素から質素倹約を励行し、ともに心身の鍛錬をして、教養を向上させた。そのことは、幕末に長岡藩が苦難に陥った際、小林虎三郎の米百俵の故事をうみ、人材の発掘につながった。

常在戦場の精神は、現代生活に通ずるものがある。越後長岡では、人材活用の基本に、常在戦場の心得を第一に唱えさせ、また剛健な生活、合理的思考を養うために、武士(侍)、農民、商人や子どもや女性にも、この精神を浸透させている。

例えば、長岡藩では上方(関西)と同じように夕食に、飯を炊くことを通例とした。これは夕食の残り飯を夜間の非常時に備えることであり、朝食は雑炊にして食べ、平素から粗食にあてることとした。また、教育対策として、有用であろうと思われる学問はどしどし取り入れた。学統にとらわれず、幕末になると洋学を学ぶものも多く出た。これは多種多芸に秀でた人材を育成することにより、戦場や平素の生活での牧野軍団の人材活用につながることを目的としていた。

第26、27代連合艦隊司令長官 山本五十六も、他人に揮毫を頼まれた時は「常在戦場」と好んで書いたことでも知られている。

“摩擦が人類の文明を発達させてきたとすれば、戦いを常に意識することは大切だ。戦いに備え、平和を考える、決して戦いに至ってはならない”

とする倫理を持ち、人々の幸福とは何かを考える。

長岡はたびたびの戦禍や天災に襲われても不死鳥のようによみがえってきた。復興を果たしてきた人々の魂に「常在戦場」の精神がある。

引用:長岡開府400年ROOTS400 Vol.1「常在戦場」

常在戦場に関連する人物

牧野忠成(まきの ただなり)

長岡藩主 牧野家資料館
牧野忠成

天正9年(1581)、三河国牛久保で名を興した牧野康成の長男として生まれた。

忠成は、越後長峰五万石を経て、元和4年(1618)に越後長岡城主となった。

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名で、戦国期から平和期へ移行する時代に、よく家臣団をまとめ、良政をしいて、長岡藩250年の礎を築いた。

山本五十六(やまもと いそろく)

山本五十六
山本五十六

明治17年に旧長岡藩士髙野貞吉の六男として生まれた髙野五十六。
阪之上小学校、旧制長岡中学を経て海軍兵学校に進む。

明治38年21歳日露戦争の日本海海戦で負傷、
大正5年32歳で旧長岡藩家老山本家の家名を継ぎ山本五十六となる。

2度のアメリカ駐在でアメリカの強大さを知った五十六は、海軍次官時代、日独伊三国同盟に反対の立場をとり.なんとしてもアメリカとの開戦を避けようと奔走した。

昭和14年海軍次官から連合艦隊司令長官となる。
昭和15年の日独伊三国同盟締結により日本は米英と対立する。
昭和16年真珠湾攻撃の指揮をとり日米開戦の火蓋を切ることとなる。早期講和を願う苦肉の策であった。
昭和18年4月パプアニューギニア・ブーゲンビル島上空で戦死

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新潟県長岡市に受け継がれし「長岡魂」

花火のように決して目や耳で感じ取ることはできないかもしれません。ですが確かにこのまちには受け継がれてきた志があります。過去から続いてきたこの想いをここで途切れさせるわけにはいきません。今こそこの長岡魂は、この先の未来を切り拓くために必要なのではないでしょうか。

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