不撓不屈の精神を知る -新潟県長岡市
「不撓不屈」を知る
私たちが住む長岡市の市章は不死鳥をイメージしている。
魅力ある地方中核都市として限りなく発展する長岡市を、
「不撓不屈」の不死鳥の姿に託して表現したものである。
「不撓不屈」は、市章になるほど長岡市民の心意気を表す言葉なのだ。
不撓不屈とは、
「強い精神で困難や逆境に立ち向かいくじけない」
という意味のこと。
私達が住む長岡市は、江戸時代には長岡藩の城下町として栄え、戊辰戦争と第二次世界大戦ではまちの中心部が壊滅的な被害を受ける。その後、新潟県中越地震をはじめとした相次ぐ災害に見舞われても、地元の人々の努力によって復興を遂げ、現在のまちの姿に繋がっている。
その象徴となっているのは、毎年長岡大花火大会で打ち上げられる、
「新潟県中越大震災復興祈願花火フェニックス」
フェニックス花火の打ち上げは、大震災に負けずに頑張っている中越地方をはじめとする新潟県全体の大勢の人々を元気付けるために、
また、一日も早い復興を祈願して、世界一の誇れるような壮大な花火を打ち上げたい、という思いからスタート。
毎年多くの市民の胸を熱くしている。
引用:長岡市HP 告示第35号市章
特定非営利活動法人ネットワーク・フェニックスHP
不撓不屈に関連する人物
河井継之助(かわい つぎのすけ)
国の内外の動きをとらえ、長岡藩政の長所、短所を大胆に述べた彼の「建言書」が藩主忠雅の目を引き異例の抜てきを受け、その後家老上席と昇進し藩政を大改革した。
そして1868年4月軍事総督として戊辰戦争の指揮をとる。7月29日、新政府軍の猛反撃を受けて長岡城は陥落。継之助も負傷し、会津塩沢で没した。享年42歳。
引用:河井継之助記念館
三島億二郎(みしま おくじろう)
河井継之助、小林虎三郎と共に三傑と称される。
戊辰戦争によって、長岡城下は崩壊。多くの人々はその日の食事に事欠く惨状に打ちひしがれていた。
明治2年(1869年)長岡藩の大参事に就任した億二郎は、ランプ会を設立。旧北越銀行や長岡赤十字病院などの創設に携わり、地域経済の復興に尽力する。長岡市民の復興の恩人。
引用:越後長岡ROOTS400 vol.7「三島億二郎をめぐる近代長岡の人びと